存在の耐えられない軽さ

本読んで考えたり、考えてること、勉強してることに関する日記

大人なんか捨てて、子供になる

ネオテニーと言う概念を聞いて、子供って無限の可能性に満ち溢れてるんじゃないか。そう思った僕は、meaningfulな生活をするためには、自分の中で大人の自分と子供の時分をバランスよく使って行くべきなんじゃないかと考えている。

 

文章を書くときもそうで、よく物を書くときは読者を想定しろという。

これってかなり大人な行為で、子供は見えもしない読者なんて想像できない。いやむしろ、目の前の人も目に入っていないのかもしれない。

 

行動心理学者のjohn watsonによると、人は考えるとき、喉の筋肉が活動するそうだ。laryngeal habitsと呼ばれる。面白いのは唖者の人に考えたり問題を解くよう促すと、彼らの場合は手の筋肉が活動的になるそうだ。話者の場合は喉で唖者の場合は手。推測されるのは、考える時には、その表現もセットになっているのではないか?ということだ。

 

話が飛ぶけど、幼い子供にとって考えるという行為は大声で話すという行為と同値であるとWatsonは述べる。なぜなら幼い子供は、たとえ誰かとコミュニケーションを取ろうとしてないときでも大声で話しているからだ。明らかに、大声で話すのは話者のためを思っている行為ではない。むしろ、考えるという行為が喉を刺激し、刺激された喉の筋肉を臆することなく活動させていると言えるであろう。

 

ふむ、だから脳の活動という意味で思考は大人と子供に共通していると言える。

だが、ほとんどの大人に比べて子供がエネルギッシュに見えるのは、当然だが、生まれ落ちたその日より子供は世界を混沌としたもので観ているわけだ。そこから何をするか?というと、世界を区切る。これは本能から根ざしていると考えられる。何故かと言うと、子供から大人になるに連れて、生物は自力で活動していかなければならない。そのためには「生きよ」という本能の声を何が何でも実現するために、知識が必要だからだ。食物を取る、天敵や危険地域の把握、雨とか嵐とか。生を維持するために、生を持続するためのもの、妨げるものを把握しなければならない。そのためには世界を区分することが必要だ。子供時代の意味付けは本能によって規定されると言って過言ではない。雨が降れば、世界は闇に包まれ、雨粒は体温を低下させる。恒常性から見て、体温の低下は危惧すべきことだ。風邪をひくかもしれない、雨に長時間晒されることは避け、エネルギーが枯渇する。じわりじわりと死が迫る。それは記憶しておかねばならない。ゆえに晴れと雨の区別が生まれる。更には雨粒と大気の違いも重要である。そして、雨のときは動いてはならないという知識も覚えておいたほうが良い。そういった自然条件による生死の要因は人類が四足歩行であった古来から続いているものなので、記憶へ刻み込まれるのが深いんじゃないか。

 

ちょっと待て、胎児は文字通り水の中をおよそ10ヶ月も滞在するわけだが、それはどうなんだろう。胎児は胎内で思考してるのか・・・?それは喉の筋肉活動を観たら分かるだろうが・・・いやそもそも、極端に未発達で生まれる人間の赤ん坊を他の動物と同等に考えて良いのだろうか。本来なら胎内にいたはずの期間、それはどんな意味を持つのか。いつからだ、未発達で生まれてくるのは。検証しないと。