シャーロック・ホームズの産みの親は可哀想な子なのかもしれない
こんなまとめを見た
まとめの要約をすると(まとめの要約って矛盾してる表現って感じでなんか面白い)
「コナン・ドイルが傑作だと思って書き上げた歴史小説は全然売れなかったのに、小銭稼ぎの為適当に書いたシャーロック・ホームズはバカ売れで悶々としてた。」
この記事はとても面白いので一読をオススメする。ページをスクロールする手が止まらずあっという間に読了してしまった!>>1の話の展開の仕方がとても上手で、当時のコナン・ドイルの心理が透けて見えるようで、かなり魅力的な男に見えてきた。
特に魅力的に感じたかのはなぜかと言うと、コナン・ドイルも作家として大成功してるにもかかわらず心の奥底ではケッコー満足していない部分があるんだなとわかって、彼に対する親近感が湧いたからである。売れっ子なのに別のもので売れたい!っていう欲望って子供ぽくていいよね。どんな天才でも人の子だと分かるとなぜか魅力が増す。
このまとめを読んで思い出したのはこの記事だ
4. なんでもいいから能動的に書け。(☆)
これは日本に限ったことではないが、みんな文章を書かな過ぎである。学校で書かされる文章は、権力者(先生)の顔色をうかがい、空気を読む訓練なので、まあ役に立たないわけではないが、自分の意見をきちんと文章化する訓練は、アメリカも日本も圧倒的に足りないので、君たちが自分で補うしかない。
承認欲求が大きければブログにして公開すればいいし、そうでなければ、誰にも見せない日記を書くのでもいい。いずれにせよ、読者を想定して自分の意見を書く訓練をしよう。
文章力ほど教育課程で軽視され、社会人生活で重視されるものは他にはない。
以上2つの記事から私の考察を落としていきたい。
「読者を想定して書け」v.s.「自分の気ままに書け」
と簡単な構図ができる。
過程をすっ飛ばして結論から行こう
アイディアに関しては自分の気ままに書くべきだ。しかしいざお金が絡むなりすると、読者を想定して書くのが無難である、であろうか。
僕の頭の中にあるのは、ブログなり本なりで、何はともあれ書きたいものを書いて世間に発表する。そして、それを金にしたいだとか、読者からの支持を得たいだとかいう欲望があれば、読者を想定して作品にしなければならないという状況下での結論だだ。
I write for my pleasure but publish for money
Vladimir Navokov
Scratch:Writers,Money and the Art of Making a Livingからの引用(p103~)
(google booksで立ち読みしただけなので内容全部把握できなくて情けないのだが)である。このナボコフの金言を引用した作者によると
We create our art without regard for its extrinsic value
であり、作品を作る際には作品によって得られる外的価値(富とか名声)なんて考慮に入れていないはずなのだ。これ書いたら売れてモテモテだろうなムフフとちょっとくらい思うかもしれないが、本当にそのextrinsic valueを得ようと思ったらcommerceするのだ。そしてそれはみんなやってることで、決して恐れる必要なんかないのだ。ということらしい。
こうしてごちゃごちゃ書いているのだけれども、僕はいろいろな意見を眺めたりするのが結構好きだ。ニコニコ動画でも自分がコメントを打つよりも流れているコメントを「ほうほう」と眺めている方が性に合っている。なんだろうか、僕はおそらく自分とは違う見方をするのが好きなのかもしれないね。意識せずともそうしているのだから仕方がない。だからかわからないけど、思考があちこちに飛んでしまう。今回の記事でも自分の立場を一貫して保つのがとても苦手だ。みんなはどうしてそんなに首尾一貫した記事をかけるのかと思わず感嘆してしまう。
さて、別の記事では as follows
心の赴くままに筆を走らせることこそ至上の喜びであるのは疑いようがない。
でもやはり、読者を想定した作品であるならば、読者を悲しませないためにも作品を箱に入れることまでが作者の責務だと考える。なろう小説でも作者疾走してると悲しいもん。
とりあえずこの記事もとりとめのないものになってしまったけど、
「気の向くままに書く」か「読者を想定して書く」か、はたまたバランスをとるか、何も考えずに書くか、そもそも書かないか、それは読者の判断に委ねようと思う。