存在の耐えられない軽さ

本読んで考えたり、考えてること、勉強してることに関する日記

何を読むか

最近、名作とか古典を集めるのに執着しております。読みもしないのに「武器よさらば」とか「月と6ペンス」なんかを買い揃えて積ん読しており、その本を目にするだけで「ああまた今日もこんな名作を読まずに終わった」と後悔というか寂しい気持ちにとらわれて床につく。

そして今日プルーストの「失われた時を求めて」をまえがきの訳者解説だけ読んで放り出した後、外山しげひこの「乱読のセレンディピティ」に手が伸びた。初めはショーペンハウアーの「読書について」と同じようなことを言っている(本を読むだけでは博覧強記になるだけで思考力がつかない。論語のみの論語知らずになるだけである。)という印象で飽きかけたのだが、やがて私の思い込みにヒビを入れる記述を見かけるようになる。

たとえば、古典や知的書物にとらわれなくてよく、自分の興味の赴くままに書を手に取ればいいというのは、少年時代自分の好きな本だけを繰り返し読んでいた頃を思い出させる。正直、プルーストを読むよりも余程過去の郷愁に浸ることができた。というのも私の小学生の頃は子供ゆえ金もなく、家にある本をこっそり読むのが楽しみだったのである。父や母の買う本は、今にして思うと常人では考えられないほど膨大で、くだらない本も多々あれど、面白い本も豊富であった。印象深いのが母の定期購読していた「シナリオセンター」の雑誌で、この雑誌では毎月素人の応募作品や、プロの脚本家の書いたドラマのシナリオなんかが掲載されてるわけである。今の僕は素人の作品なんて、と敬遠するであろうが、当時を思い返すと素人の作品をなんの思い込みも持たずに読むことのまあ面白かったこと!いい作品ばかりではなかったが、これは続きが気になるなという作品や思わず読み返す作品にも出会えて随分楽しい思いをしていた。また、何分金がないので、家にある本で特に面白いのを繰り返し読んでいた。新しい本に次々飛びつくのも悪くないのだろうが、少年ながらに楽しんでいた日々も懐かしく思わされる。