存在の耐えられない軽さ

本読んで考えたり、考えてること、勉強してることに関する日記

期待と裏切り

どうしても頭の中に浮かんでは消えることを書き留めたい衝動に駆られる時がある。

いま頭の中にふっと浮かんだことがある。僕の行いは自分の思いを他の人に伝えて分かって欲しいという欲動が源泉になっているということだ。一瞬、僕がなぜこんなに英語を勉強しているのかと考えたところ、英語が出来ればより多くの人に自分の思いを発信できるから、という根拠を思いついた。しかし本当の望みは違う。僕がやっていること、勉強であれ、英語の勉強であれ、スポーツであれ、なんであれ、僕がやっているのはひとえに「僕を見て、理解して、優しく微笑んでくれ」という切実な願いによるものなのだ。思い返せば昔の僕は勉強なんて全然好きじゃなかった。塾には行かせられていたけれども、テニスを習わされていたけれども、勉強自体、テニス自体は得意じゃなかったので全然乗り気じゃなかった。むしろ塾に行って授業が始まるまで友達とニコニコ動画の話をして盛り上がったり、テニススクールに行くバスの中で一個上の人と一緒にマリオをしたりするほうが好きだった。すべてが変わったのは僕が中学に上がった頃で、小学生の時は不真面目だった僕が、中学受験組が抜けたことで一気にトップに躍り出た。また、成長期とともに体もシュッとして、テニスでもうまい部類に入ったことだ。そのためだろうか?...当時の僕に何が起こったのか、サボりたかったテニスのレッスンも週5日で毎日こなし、部活でくたくたになった後も塾に行き宿題をこなすという生活にシフトしたのだ。自信がついたのか、ただの馬鹿なのか、今だったら絶対にやらない生徒会にも立候補したりと・・・何かと他人に認められる行為をしていたのだ。いや、認められる、見てもらえる、すごいと言ってもらえるからこそ、やっていたのだろう。誰もすごいとか尊敬とかしてなかったら本来の僕は勉強してないだろうことは小学生の自分が証明している。。。僕の人生というのは、人に認めてもらい、スゴイと言われるために人生を使ってきた時が度々ある、、、もちろん、悪いことではないのだが。。。しかしそんな純粋無垢な、あらゆる行為が注目と称賛につながる幻想を心より信じる無垢な心を僕は失ってしまったのだ。思えばそれは小学校のときはYoutubeだったのかもしれない。自分の好きな動画だけ投稿すればいいのではないのだ。それは中学校のときは勉強だったのかもしれない。勉強してもそれだけでいいわけではないのだ。それは高校のときは笑わせることだったのかもしれない。笑いを取るだけではだめだったのだ。共通していることといえば、僕がやっていることを見ているのは僕だけでないということだ。見ているのは僕を称賛するものだけでないのだ。無関心ならばよいが、僕を見て嫉妬とか嫌悪とかマイナスに感じるものもいるのだ。傷つけば別のジャンルへ、失敗すればまた別のジャンルへと飛び渡るのが僕のスタイルだったのだろう。それは一時的に傷ついた心を癒やすためには良いが、また別の部分が傷つく結果になっている。そのうちに僕の心は気づかぬうちに傷つき、疲れ切って、すっかり渇いてしまった。それは毎回心から期待していたのが理由で、じゃあ期待しなければいいじゃんという気持ちもわかるのだが。しかし、期待しなかったら、嬉しさなんて全然ないでしょう?ずっと欲しかったものが手に入ることほど嬉しいものはないんだ。そして、期待が裏切られたら、その期待はもう純粋無垢なものではなくなっているのだ。自信満々には言えないが、人生はこの期待が裏切られることの連続ではないだろうか?やがて期待しても裏切られそれに疲れ果てると・・・人は期待するのをやめてしまうのではないだろうか?それが精神的に老いるということであり、それってとても悲しいことだと僕は思う。

話は打って変わるのだが僕は理系の学生であり、はからずも科学を信仰していることから、このような問題(問題の発見と分析)を提出されると、すぐさま次のような問いを発するようになる。問題があるのはわかった。それが悪いというのは十分理解した。では、それを解決するためには一体どうすればいいのか...?と。この場合、期待が裏切られることで人は期待しなくなってしまうという問題点がわかった。解決すれば、人は期待し続け挑戦をやめない。それはどうすればいいのか・・・?いくつか方策が思い浮かぶが、俯瞰したで見ると、一つの条件として信念を傷つけないことが前提条件となる。つまり自分の信念を疑わない、無条件に信じ切ってしまうことが必要である。それは第三者から見れば愚かな行為であるが、本人にとっては必要不可欠なことなのだ。