「他愛ないもの」より「作品」が好きだ
「眠い」
「お腹空いた」
という他愛もない発言があるだろう。僕はああいう話がとても苦手だ。
思考ロックした、ただただ思いつきのままの発言。それにいちいち反応するのがとても億劫で、日常世界でやられるとオトナモードの仮面を装着して薄ら笑いを浮かべている。そんな自分に嫌気が差すこともある。思うに、愚痴とか他愛もないことを聞いてあげるのが友達なのだ。それは会話の内容よりも、その人の外見とか性格とか他の要素を気に入っているから聞いているのであって、内容を評価して聞いているのではないのだ。
- はて、僕は会話において圧倒的に内容を重視する。
考えると、僕は作品が好きなんだ。
僕にとって普通の人は、うちに秘めたるものもなければ、なにか野望があったりするわけでもない。その日暮らしの快楽に溺れることを専らとする。それが普通だし、それで終わりだ。僕はそれがとってもつまらないものだと考える。死ぬことを待つだけの生になんの意味があるのだ?
一方で内に秘めたる意志のある人、周囲に合わせるのではなく、自らの欲望に忠実でそれに向かい邁進する人。プロアスリート、一流研究者、トップモデルに限らず、楽な方向に流されず自らの信じた道を突き進むもの。そういう人に僕は心が動かされるのだ。いわば彼らは自らを作品に昇華させている。混沌とした意志ではなく、はっきりと秩序だったものがtake shapeしている。会話の内容も心の内を垂れ流す今の僕の文章ではなく、シェークスピアとか三島由紀夫とか、well organizedでsophisticatedな形をとるものが良い。つまり丹念に作り込まれていて、美しさやカッコよさが形そのものにすら現れたもの、それを僕は求めている。