存在の耐えられない軽さ

本読んで考えたり、考えてること、勉強してることに関する日記

知識が身に付かない人、記憶力が落ちた人は「アウトプット大全」を読むべし

本をたくさん読むのになぜ知識が身に付かないのか?

僕は本の虫で、時間がある時は必ず本を読んでいる。本中毒と言ってもいいかもしれない。ただ本を読んではいるけれども、思い返すとほとんどの内容は覚えていないことに気づく。友人と話していても、「あ、それ知ってるけど・・・なんだっけ」となりがちで、自らの知識として会得できていないのだ。また学校での勉強も年齢を重ねるにつれて暗記力がなくなってきたと実感しており、どうしたものかと悩んでいた。長年本を読み解く訓練をしているので理解力は人一倍あるのだが、どうしても覚えるのが苦手だ。どうしたらいいのだろうか?そんな時この本に出会った。270ページほどの厚い本だが、一ページ見開きでほとんどの内容が完結し、更に右ページはイラストになっていることが多い。更に自己啓発本を多く読む人は見知った内容も多いので、エッセンスだけ紹介していく!
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学びを結果に変えるアウトプット大全 (Sanctuary books)

学びを結果に変えるアウトプット大全 (Sanctuary books)

 

この本のなにがそんなに良いのか

 

インプットとアウトプットの認識が変わった!

 

この本によると

・インプット=読むこと聞くことで、自己の内面が豊かになる

アウトプット=書くこと話すこと行動することで、現実世界が変わる


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これだけ聞いて僕は別に自己の内面世界を充実させたいだけだからいいやと思うかもしれないが、筆者はさらに鋭い指摘を加えてくる。

 

曰く

インプットをすることはただの自己満足に過ぎないしかしアウトプットをすれば知識を身体感覚で覚える事ができ、自己成長にもなる。更に他の人に影響を与えることもできる。 どちらがいいかは歴然だ。そしてほとんどの人はインプットばかりしていることを筆者は嘆いていた。ネットでもインターネットサーフィンをするだけで Twitter も読むだけ動画も見るだけ。これでは自分の世界は変わるけども現実世界は何一つ変わらない。 現実世界であまり楽しくないなとか幸せじゃないなとかって思ってる人は結局アウトプットが足りないのだ。

そのことに気づけたのがこの本の大きな収穫だ

 

知識を定着するにはどうしたらいいか

 

本書は大きく5部作で

前書き

2話し方

3書き方

4行動の仕方

5 アウトプット力を高める7つのトレーニング方法

(このうち、話し方、書き方、行動の仕方は既に他の自己啓発本で読んだことと大体同じだからさらっと読み飛ばす程度でいいと思った。)

 

大事なのは前書きに加えてトレーニング方法だ。特にトレーニング方法を実行することが本書のどのページを読むことより大事だ。


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1 日記を書く

2 自分の体調について書く

3 読書感想文を書く

4 情報発信する

5 SNS に書く

6 ブログを書く

7趣味について書く

 

僕のおすすめは3~7をTwitterとブログに書くことだ。書くことで筋肉で記憶できる。これがまず1つ目

二つ目に、ネット上に色々と書くことは何が良いかと言うとフィードバックが得られることだ。

アウトプットをするだけだと大した成長は望めない。アウトプットをし、それについて読者及び視聴者のフィードバックを受けて、どこが良かったか悪かったか?書き方はわかりやすいか?そもそも面白いか?を判断し分析する。それを元にして更なる次のインプットをし、次のアウトプットの質を高めるのだ。とても納得がいった。


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僕はどう変わったか

もちろん僕も絶賛アウトプット中笑

具体的には今ここに書いているブログは読んだ本や論文、見た映画などの良い点をまとめて情報発信している。読者が普段だと出会わないような有益な知識に出会えてくれたらいいなと思って書いている。また書くことそれ自体が良い訓練になっており、自己成長につながっているなあと感じるし、あと単純に楽しい。さらに Twitter でも他の人とやり取りをしてそこのつながりから新しい情報源を得ることができている。ナイアシンフラッシュなんて知らなかったし、最近ではフォロワーさんからケトジェニックダイエットしていて便秘になりがちな時にはブロッコリーほうれん草を食べると良いと聞いてそれを実践したら確かに便秘は以前よりましになった気がする。今の所アウトプットはいい影響しかない。まぁ、時間はかかるのだが・・・笑 アウトプットは単純に楽しいし クリエイティブな作業なので、これからも続けていきたいと思っているよ!ここまで読んでくれた人は是非Twitterとブログを開設し、趣味について書こう!!

「甘くない砂糖の話」は糖質神話を打ち砕けるか?

糖質制限が最近の流行りである。

 

街を歩けばロカボ糖質制限の食べ物が続々登場し、テレビやインターネットでは糖分をカットすることの優位性が大いに語られている。もはや糖質制限は人口に膾炙していると言っても過言ではない。

 

・でも、本当に糖質をカットして変わるの?

・ご飯食べてるけどなんともないよ?

 

と懐疑的な人もいるだろう。そんな方々にある種の答えを提示するのがこの映画だ?

 

あらすじ

舞台はオーストラリア

成人男性(監督)がオーストラリア人の平均であるティースプーン40杯分の砂糖を含む食べ物を2ヶ月間食べ続けるとどうなるか ?

監督は日頃からケトジェニック生活を実践しており1日のカロリーのうち50%をアボカドや卵黄などの脂質から。30%を魚や卵白などのタンパク質から。残り20%野菜の炭水化物から摂取していると言う。実験では、なんとジャンクフードやスナックは一切摂取しない。ヨーグルト、スムージーなどいわゆる「健康的」な食事のみを摂り2ヶ月間生活する壮大な実験ドキュメンタリーだ。

 

感想と考察

初めて目にしたときは名作「スーパーマンサイズミー」を彷彿とさせた

 

 

スーパーサイズミーハンバーガーを食べる実験だが、今回の「甘くない砂糖の話」はただの「健康的」な食べ物を食べ続ける実験であるハンバーガーが体に悪いことは知っているが、ヨーグルトやスムージーが悪いかもしれないと気づく人は多くないだろう?

 

結果から言うと、監督は

体重は8.5kg増え

エストは10cm広くなった


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もちろん監督はケトジェニック生活をしていたのでインスリン耐性が低下しており、体重が増えやすい体質だったのは事実だが、2ヶ月で8.5kgの増量は凄まじい。

い、いや、あれでしょ?カロリー過多になったんでしょう?という反論が聞こえるが、なんとカロリーは実験前後でほぼ同じ。さらに週三回の運動までしている。

 

一体何が起こっているのか?

 

まず、糖質(グルコースやフルクトース)を摂取すると、消化され体内に吸収される。

血管を流れる糖質の内、グルコースは細胞内のエネルギーになったり、脂肪になって蓄えられたりする。

そして、フルクトースは血液中で脂肪になる。なぜならフルクトース(果糖)は古来貴重だからだ。貴重なエネルギー源なので体に蓄えようとするわけだ。

面白いことに、血管のグルコースを細胞内に吸収しようとインスリンが働いてるとき、脂肪の代謝は行われない。つまり、血液中に浮かぶ脂肪はエネルギーとして使われず、体内に蓄えられてしまう。これが糖質を摂ると太るメカニズムだ。


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つまり、糖質は本来体が溜め込みたい貴重なエネルギー源なので太るのは当然なのだ。果物をそのまま食べているような時代はそれでよかったが、今では人工的にジュースにして食物繊維を除いてわざわざ飲みやすくしたり(りんごは一個でティースプーン4杯分だ)異性化糖を大量に加えているので過剰摂取に陥りがちである。


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また、血糖値の乱高下が気分の浮き沈みに関わるのは、低血糖の時はストレスホルモンが分泌されるからであるとか、オーストラリアで一番砂糖を摂取しているのは都会の住民ではなくアボリジニあり、かつてアボリジニは病気とは無縁の生活であったのに、今は病気で苦しむと言った事実が述べられている。


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Diabetes in Aboriginal Australians - Wikipedia

アボリジニの糖尿病はWikipediaのページが作られるほど深刻である。

 

更に、食品会社は消費者が一番満足する「至福点」に達するまで飲み物に最大量の砂糖を加えている🙄🙄🙄など、糖質に関する闇は根深い。是非この映画をより多くの人が観て、糖質に対して考えて見て欲しい。

 

(尚、監督は実験の後元の脂質中心の生活に戻し、増えた体重を落とし、死んでいた肝機能も元通りにすることに成功している。良かった!)

カフカの「変身/掟の前で」光文社古典新訳文庫

 

変身,掟の前で 他2編 (光文社古典新訳文庫 Aカ 1-1)

変身,掟の前で 他2編 (光文社古典新訳文庫 Aカ 1-1)

 

 

 

カフカの印象と東京喰種

カフカのことを初めて知ったのは「東京喰種」という漫画を読んだ時だ。作中の主人公金木研は人の見た目をしながらも人を喰らう「喰種」に突如として襲われながらも運良く(ここは解釈が別れる)一命をとりとめ、襲ってきた喰種の臓器を移植することで半人間半喰種として再び生を受ける。「変身」のグレーゴルが毒虫になり腐ったチーズを好むように食性が変化したのと同様に「東京喰種」の金木研も人間が口にするものに嫌悪感を覚え、人肉やコーヒーしか口に出来ない体になる。
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漫画のオマージュにもなるほどの有名な作品だが、カフカの予備知識としては「どうやら突然毒虫になり腐ったチーズを食べるようになる男の話を書いた奴」程度のものしかなかった。

 

判決

あらすじ

主人公ゲオルク・ベンデマンは、父親の店で働く若い商人である。彼は2年前に母を亡くして以来、父親と2人で生活しており、現在はもっぱら彼が中心となって店を切り盛りしている。作品の冒頭では、彼は異国で生活する友人への手紙を書き上げたところである。友人は成功を求めてロシアのペテルブルクに移住したものの商売がうまく行っておらず、家業が成功しているゲオルクは彼との手紙のやり取りに迷うところがあった。一月前に恋人と婚約したことも手紙に書きそびれていたが、しかし今回はようやく決心し、長い手紙の最後に自分の婚約について記していた。

ゲオルクは手紙をポケットに入れると、父の部屋へ行き、婚約の知らせを手紙に書いたことを父に知らせる。しかし事情を聞いた父は、お前にはペテルブルクに友人などいないと言い張る。ゲオルクは父に友人のことを言い聞かせ、父の健康を気遣い自分の部屋のベッドへ運んでいく。しかしベッドに寝かされた父は突然憤激し、ゲオルクが女の色香に迷い、自分や友人をほったらかしにしていたことをなじる。そして自分はペテルブルクにいるゲオルクの友人をよく知っており、それどころか彼の代理人としてすべての事情を手紙で書き送っていたと言う。そして言い争いの末、父親がゲオルクに溺死を命じると、ゲオルクは家を飛び出し、父母を愛していたことを小声でつぶやきながら、橋の上から身を投げる。

感想

はっきり言おう。最初読んだ時何言ってるか全然わからなかった

ロシアに去ってしまった友人にためらいながらも手紙で結婚したことを告げようと決心したら父親に死ねと言われて死んでしまう男の話だ。

 

これがカフカなのか?不条理不条理といわれる理由がわかった。というのも、前半の男は、父親が病に倒れても健気に頑張って店を支え、ロシアの友人に嫉妬心を起こさせたくないと配慮しつつも正直な話を伝えられない事に葛藤しながら遂に!結婚したことを伝える事に決める、要は人生イケてるし他人にも気を遣えるメチャクチャ良い奴なのである。だのに後半になると、精神病の父親お前は友人などいないとか、私が友人とやり取りしてすべての事情を(恐らく結婚のことを示唆してる)説明してる等と支離滅裂なことを言われるのだ。普通の精神ならば、相変わらず親父は大変だな、で済ませるのが道理だろう?それなのに息子は自殺するのだ。全く、前半と後半の齟齬が甚だしい。自然科学を専攻し、論理を愛する僕にとっては新鮮な気持ちを引き起こさせる作品だ。

 

解釈

内容を論理に沿ってまとめるだけで良い作品ならこれほど楽なことはないだろう。しかしカフカは違うのだ。あらかじめ設定しておいた人物の印象をがらりと変える結末を用意し、読者の心を揺さぶる。果たしてこれはどういう意味なのか?

 

  1. 精神病なのは息子の方だった
  2. 解釈など意味がない

 

1.精神病なのは息子の方だった

これ程までに疑問符が残る文章だと、物語の記述を全て信用してはいけない。

 

「ーしかし この問題に関してはお願いだ、ゲオルク、嘘をつくな。その手紙のことだ。つまらん。話す価値もない。だから嘘をつかないでほしい。本当にペテルブルクにそんな友達がいるのか」

 

これを聞いたゲオルクは狼狽えるのだが、ゲオルクがまともならばそうする必要はあるだろうか?私にはゲオルクが精神錯乱しているようにしか見えない。自らの心のなかで存在する友達の存在に疑問符を投げ掛けられて困るのは、それが自分にとっての拠り所となっているからだ。ゲオルクは順調な暮らし、婚約者もおり、苦労してる友人もいるのだ。

お前の友達なら、私は良く知っている。 心にかなった息子のようなものだ。だからお前はあれを何年もずっと騙してきたんだ。違うか。あれのために私が泣かなかったとでも思うのか。だからな、お前は事務室に閉じこもって、誰も入れない。ボスは多忙だからなーもっともそうすればロシアに偽の手紙も書けるわけだ。だがな、嬉しいことに父親というものは教えてもらわなくたって息子の心が読めるものだ。親父のことをやっつけたと思ってただろう。尻にしいてやったから、親父のやつ、動きできないだろう、とな。そこで息子さんとしては結婚しようと決心したわけだ。

 

当にここは父親の今までの苦労が感情と共に吐露されている場面ではないだろうか?

 

だがな、お前の友達は騙された訳じゃない。私がこの街であれの代理人だった。

 

つまり、手紙を受け取っていて、友人の振りをしていたのは父親だったのだ。

 

まとめ

初めは何を書いてるかわからなかったが、息子が精神錯乱だという前提に立つと一気に空模様が明るくなった。他にも学者等が解釈を書いているのがあるので、是非参考にしてまた新たな記事を書きたい。次は変身について書こうと思っている。

期待と裏切り

どうしても頭の中に浮かんでは消えることを書き留めたい衝動に駆られる時がある。

いま頭の中にふっと浮かんだことがある。僕の行いは自分の思いを他の人に伝えて分かって欲しいという欲動が源泉になっているということだ。一瞬、僕がなぜこんなに英語を勉強しているのかと考えたところ、英語が出来ればより多くの人に自分の思いを発信できるから、という根拠を思いついた。しかし本当の望みは違う。僕がやっていること、勉強であれ、英語の勉強であれ、スポーツであれ、なんであれ、僕がやっているのはひとえに「僕を見て、理解して、優しく微笑んでくれ」という切実な願いによるものなのだ。思い返せば昔の僕は勉強なんて全然好きじゃなかった。塾には行かせられていたけれども、テニスを習わされていたけれども、勉強自体、テニス自体は得意じゃなかったので全然乗り気じゃなかった。むしろ塾に行って授業が始まるまで友達とニコニコ動画の話をして盛り上がったり、テニススクールに行くバスの中で一個上の人と一緒にマリオをしたりするほうが好きだった。すべてが変わったのは僕が中学に上がった頃で、小学生の時は不真面目だった僕が、中学受験組が抜けたことで一気にトップに躍り出た。また、成長期とともに体もシュッとして、テニスでもうまい部類に入ったことだ。そのためだろうか?...当時の僕に何が起こったのか、サボりたかったテニスのレッスンも週5日で毎日こなし、部活でくたくたになった後も塾に行き宿題をこなすという生活にシフトしたのだ。自信がついたのか、ただの馬鹿なのか、今だったら絶対にやらない生徒会にも立候補したりと・・・何かと他人に認められる行為をしていたのだ。いや、認められる、見てもらえる、すごいと言ってもらえるからこそ、やっていたのだろう。誰もすごいとか尊敬とかしてなかったら本来の僕は勉強してないだろうことは小学生の自分が証明している。。。僕の人生というのは、人に認めてもらい、スゴイと言われるために人生を使ってきた時が度々ある、、、もちろん、悪いことではないのだが。。。しかしそんな純粋無垢な、あらゆる行為が注目と称賛につながる幻想を心より信じる無垢な心を僕は失ってしまったのだ。思えばそれは小学校のときはYoutubeだったのかもしれない。自分の好きな動画だけ投稿すればいいのではないのだ。それは中学校のときは勉強だったのかもしれない。勉強してもそれだけでいいわけではないのだ。それは高校のときは笑わせることだったのかもしれない。笑いを取るだけではだめだったのだ。共通していることといえば、僕がやっていることを見ているのは僕だけでないということだ。見ているのは僕を称賛するものだけでないのだ。無関心ならばよいが、僕を見て嫉妬とか嫌悪とかマイナスに感じるものもいるのだ。傷つけば別のジャンルへ、失敗すればまた別のジャンルへと飛び渡るのが僕のスタイルだったのだろう。それは一時的に傷ついた心を癒やすためには良いが、また別の部分が傷つく結果になっている。そのうちに僕の心は気づかぬうちに傷つき、疲れ切って、すっかり渇いてしまった。それは毎回心から期待していたのが理由で、じゃあ期待しなければいいじゃんという気持ちもわかるのだが。しかし、期待しなかったら、嬉しさなんて全然ないでしょう?ずっと欲しかったものが手に入ることほど嬉しいものはないんだ。そして、期待が裏切られたら、その期待はもう純粋無垢なものではなくなっているのだ。自信満々には言えないが、人生はこの期待が裏切られることの連続ではないだろうか?やがて期待しても裏切られそれに疲れ果てると・・・人は期待するのをやめてしまうのではないだろうか?それが精神的に老いるということであり、それってとても悲しいことだと僕は思う。

話は打って変わるのだが僕は理系の学生であり、はからずも科学を信仰していることから、このような問題(問題の発見と分析)を提出されると、すぐさま次のような問いを発するようになる。問題があるのはわかった。それが悪いというのは十分理解した。では、それを解決するためには一体どうすればいいのか...?と。この場合、期待が裏切られることで人は期待しなくなってしまうという問題点がわかった。解決すれば、人は期待し続け挑戦をやめない。それはどうすればいいのか・・・?いくつか方策が思い浮かぶが、俯瞰したで見ると、一つの条件として信念を傷つけないことが前提条件となる。つまり自分の信念を疑わない、無条件に信じ切ってしまうことが必要である。それは第三者から見れば愚かな行為であるが、本人にとっては必要不可欠なことなのだ。

優しさとは強さの証明

 優しいものは柔和で物腰丁寧な印象を与えるため一見弱々しく見える。しかし、優しき者は、実はとても強い存在なのではないだろうか?確かに、自分の身を守るためへりくだり、取るに足らない存在を演じるものもいる。自分を弱く見せれば同情を買い攻撃されないという狡猾な知恵を働かせる彼らだ。しかし、私が言おうとしているのはこのような目的的な優しさではない。真に強き者に宿る強き優しさだ。

 

 

 

 

 真に優しくあるために必要なものがある。強さすなわち、心の余裕と寛大さだ。

 

 

 

 

 心の余裕があるときのみ、人は優しく出来る。そして、心の余裕とは物質的な欲求が満たされて初めて得られるものであることは間違いない。古代の人類を想像してほしい。食欲や睡眠欲を満たすだけの食料や寝床はもちろん、外敵から身を護るための武器も備えている人間はそう多くはないであろう。飲まず食わずや睡眠不足からピリピリしていたり、常に敵の恐怖からビクビクしているものは心の余裕がない。食料や寝床を確保する身体的な強さは当然のこととして、大多数にかけるのは心の強靭さである。心に余裕がなく常に攻撃的な面を見せるのは、一重に弱さの証明なのだ。シェイクスピアの「マクベス」でも<キング・スレイヤー>であるマクベス王は魔女の予言を恐れて狂王と成り下がる。

 

 

 心に余裕があるからこそ、人に寛大である余裕があるのだ。寛大であるというのは、相手のミスや弱さを見逃すことである。ここで鋭い意見として、相手のミスを見逃すことは支配欲なのではないか?という人もいるだろう。蓋し、相手の良きところだけに注目し、弱さを認めず自分の認識する型に相手をはめて扱うこと。それは一種相手を都合の良いように見る支配であり、弱さなのではないか?一理ある。そういう者がいることも否定しないが、本当に強いものは弱さを無視しない。きちんと相手の弱さを認めた上で、「許す」。許して接するのだ。これは真に強き者にしかできないことだ。普通、少し強いだけの者は弱き者を嫌悪する。ゆえに弱き所を無視して扱うか、全くかかわらないか、いずれにせよ弱さに同質化して自らの強さが失われないために徹底的に弱さを排除する。真に強き者はこれを凌駕する。さながら人間がアリに対して絶対的な強さを持つように、真に強き者は弱き者と交わってもその強さを失わない。そういう意味で「朱に交われば赤くなる」とは真の強さを持たない大多数の者のための教訓なのだ。しかし、このような絶対的な強さを持つものは、もはや人間の境地を超えているとも思われるが・・・。

 

 

現実的な話をしよう。現代社会で優しいことは善であるとされる。しかし優しさは身を護る手段として使われることもあり、絶対的な善とは言えない。優しさが善であると人類が定めたのは、遥か昔弱肉強食の世界から善悪の価値観が誕生するその瞬間まで遡るが、、、問題はその変化それ自体だけではない。蓋しその価値観の転換に付随する問題は、人が「妥協」というものを覚えたことである。生きることに必死にならなくても生きることが出来るようになった。一見喜ばしいが、これが人が物事をなめてかかり、生きることをを見下す理由にもなっている。(自殺の根本的な理由はこれではないのか?)

 

 

心理現象と言語

最近考えていることは、心理現象は言語に先立つであるということだ。ややカントを思い出す。

僕はいつ絶対的な時間に心理ができたかわからないが、相対的に真理は言語より先に存在するものだと信ずる。

それは何故かと言うと、言語の起源を考えれば分かる。言語は人間固有のものだと考えるかも知れない。しかし言語を持つ動物は人間以外にもいて、イルカ、蜂、チンパンジーなど、数多くの生物が伝達手段として言語を有する。

特にチンパンジーを見てみよう。親愛なる著書サピエンス全史によると、チンパンジーは嘘をつけるそうだ。本当はライオンがいないのに、あそこにライオンがいるぞ!と仲間に知らせることで、仲間を寄せ付けずバナナを独占することがあるそうだ。チンパンジーが嘘を付くことができるのに、我々が生態系の頂点にいて、チンパンジーが檻の後ろに閉じ込められているのは何故なのか。それは人間がないものを信じる力を持っているからだ。つまり虚構を想像して、しかもそれを共有することができる。

 

ただまあ、言語とは何かと言うと、およそ言語を有する動物を見るに、言語とは自らの心理現象を他者に伝達するために発生したと言えるだろう。他者がいなければ言語は存在しないだろう。だって他者がいなければ自分の中で発生する心理現象を外在化する必要がないではないですか。自己完結すれば良い。ただ現実には他者が存在し、他人と協力し最大限の成果を獲得するために、言語を使用している。狩猟採集をする時などに集団で行動するほうが個人の生存率が上昇するので、アイディアを他者と共有して、ある意味自分の脳にしか存在しなかった心理現象を、半ばインターネットのような集合知のイメージで、集団的心理現象を形成しているんじゃないかな。

更に、既存の言語で表現できない心理現象もある。アインシュタインも数式をいじくり回してではなく、頭にハット閃いたイメージで相対性理論を思いついたと言っていた。芸術が存在するのも、言語で表現できない心理現象をなんとか表現しようとしているからだ。映画や芸術で、小説とは違う感動が引き起こされる物があるだろう。

 

結論

心理現象が先→言語が後に生まれる

 

ただ、言語があることで知を外在化して、概念を捨象して、抽象的に物事を考えやすくなったのではないかと感じる

シャーロック・ホームズの産みの親は可哀想な子なのかもしれない

こんなまとめを見た

blog.livedoor.jp

まとめの要約をすると(まとめの要約って矛盾してる表現って感じでなんか面白い)

 

コナン・ドイルが傑作だと思って書き上げた歴史小説は全然売れなかったのに、小銭稼ぎの為適当に書いたシャーロック・ホームズはバカ売れで悶々としてた。」

 

 この記事はとても面白いので一読をオススメする。ページをスクロールする手が止まらずあっという間に読了してしまった!>>1の話の展開の仕方がとても上手で、当時のコナン・ドイルの心理が透けて見えるようで、かなり魅力的な男に見えてきた。

 

特に魅力的に感じたかのはなぜかと言うと、コナン・ドイルも作家として大成功してるにもかかわらず心の奥底ではケッコー満足していない部分があるんだなとわかって、彼に対する親近感が湧いたからである。売れっ子なのに別のもので売れたい!っていう欲望って子供ぽくていいよね。どんな天才でも人の子だと分かるとなぜか魅力が増す。

 

このまとめを読んで思い出したのはこの記事だ

20歳のときに知っておきたかったこと - quipped

 

4. なんでもいいから能動的に書け。(☆)

これは日本に限ったことではないが、みんな文章を書かな過ぎである。学校で書かされる文章は、権力者(先生)の顔色をうかがい、空気を読む訓練なので、まあ役に立たないわけではないが、自分の意見をきちんと文章化する訓練は、アメリカも日本も圧倒的に足りないので、君たちが自分で補うしかない。

承認欲求が大きければブログにして公開すればいいし、そうでなければ、誰にも見せない日記を書くのでもいい。いずれにせよ、読者を想定して自分の意見を書く訓練をしよう。

文章力ほど教育課程で軽視され、社会人生活で重視されるものは他にはない。

 以上2つの記事から私の考察を落としていきたい。

 

「読者を想定して書け」v.s.「自分の気ままに書け」

 

と簡単な構図ができる。

 

過程をすっ飛ばして結論から行こう

 

アイディアに関しては自分の気ままに書くべきだ。しかしいざお金が絡むなりすると、読者を想定して書くのが無難である、であろうか。

 僕の頭の中にあるのは、ブログなり本なりで、何はともあれ書きたいものを書いて世間に発表する。そして、それを金にしたいだとか、読者からの支持を得たいだとかいう欲望があれば、読者を想定して作品にしなければならないという状況下での結論だだ。

 

I write for my pleasure but publish for money 

                                                           Vladimir Navokov 

 

 Scratch:Writers,Money and the Art of Making a Livingからの引用(p103~)

(google booksで立ち読みしただけなので内容全部把握できなくて情けないのだが)である。このナボコフの金言を引用した作者によると

We create our art without regard for its extrinsic value 

 であり、作品を作る際には作品によって得られる外的価値(富とか名声)なんて考慮に入れていないはずなのだ。これ書いたら売れてモテモテだろうなムフフとちょっとくらい思うかもしれないが、本当にそのextrinsic valueを得ようと思ったらcommerceするのだ。そしてそれはみんなやってることで、決して恐れる必要なんかないのだ。ということらしい。

 

こうしてごちゃごちゃ書いているのだけれども、僕はいろいろな意見を眺めたりするのが結構好きだ。ニコニコ動画でも自分がコメントを打つよりも流れているコメントを「ほうほう」と眺めている方が性に合っている。なんだろうか、僕はおそらく自分とは違う見方をするのが好きなのかもしれないね。意識せずともそうしているのだから仕方がない。だからかわからないけど、思考があちこちに飛んでしまう。今回の記事でも自分の立場を一貫して保つのがとても苦手だ。みんなはどうしてそんなに首尾一貫した記事をかけるのかと思わず感嘆してしまう。

 

さて、別の記事では as follows

www.theguardian.com

心の赴くままに筆を走らせることこそ至上の喜びであるのは疑いようがない。

でもやはり、読者を想定した作品であるならば、読者を悲しませないためにも作品を箱に入れることまでが作者の責務だと考える。なろう小説でも作者疾走してると悲しいもん。

とりあえずこの記事もとりとめのないものになってしまったけど、

「気の向くままに書く」か「読者を想定して書く」か、はたまたバランスをとるか、何も考えずに書くか、そもそも書かないか、それは読者の判断に委ねようと思う。